ごあいさつ
『人を治す道は国を治す道へ通ず』
 これが私の政治理念です。正しい診断をして適切な治療を行う。これは人を治すのも国を治すのも同じです。救命救急センターで救急医として一生懸命患者さんを治療していたら、気が付くと国が瀕死の重体になっておりました。国の病を治さなければ国民の命を守ることは到底できません。
 元気で希望溢れる日本にするために、医師として培った経験を生かして私は全力で日本を集中治療いたします!
かのあきら
プロフィール
  • 氏名
    鹿野 晃(かの あきら)
  • 生年月日
    昭和48年2月
  • 血液型
    O型
  • 家族
    妻と長女(平成25年1月出生) 次女(平成27年6月出生) 長男(平成29年6月出生) 4人目を目指す?
  • 趣味
    温泉、読書、ドライブ、サバゲー(陸自迷彩&89式小銃)
  • 好きな言葉
    愛妻
  • 尊敬する人物
    上杉謙信公
  • まず家に帰ってからすること
    子供とお風呂
略歴
  • ER救命医師/日本救急医学会 救急科 専門医
  • 日本救急医学会認定 ICLS(医療従事者向け救命講習)コースディレクター
  • PUSHプロジェクト(一般市民向け救命講習)認定インストラクター
  • 陸上自衛隊 予備自衛官(医官) 一等陸尉(大尉)
  • 青梅成木台病院 診療部長
  • 埼玉石心会病院 救急科 非常勤医師
  • 日本DMAT(災害派遣医療チーム)隊員
  • 東京DMAT(災害派遣医療チーム)隊員/インストラクター(元)
  • 東京消防庁 救急隊指導医(元)
  • 青梅市立総合病院 救命救急センター 医長(元)
  • 独立行政法人 国立病院機構 災害医療センター 登録医(元)
  • 康明会病院 地域医療診療統括部長/在宅医療(訪問診療)医師(元)
  • 医師会 在宅医療推進委員(元)
  • 日本会議 調布支部 幹事
  • 隊友会 終身正会員
  • 靖国神社 崇敬奉賛会 終身正会員
    大叔父が海軍兵学校第71期(名曲「同期の桜」の作詞者を育んだクラス)卒
    昭和19年7月30日テニアン島で割腹自決 21歳 海軍大尉

▲ER救命医師 正しい状況判断で多くの命を救ってきた。

▲陸上自衛隊 予備自衛官 医官(軍医)として国防に貢献。射撃検定は1級でした。

▲DMAT隊員 厳しい訓練を積み、大規模災害に備えます。

経歴
  • 平成3年

    富山県立 高岡高等学校 普通科 卒業
  • 平成3年

    国立 高知大学 理学部 地学科 入学
  • 平成3年

    国立 高知大学 理学部 地学科 中退
  • 平成8年

    藤田保健衛生大学 医学部 入学
  • 平成13年

    米国 アイオワ大学 医学部 小児外科/神経内科 留学
  • 平成13年

    米国 ペンシルバニア大学 医学部 フィラデルフィア小児病院 留学
  • 平成14年

    藤田保健衛生大学 医学部 卒業
  • 平成21年

    青梅市立総合病院 救命救急センター 救急科 医長
  • 平成23年

    千里メディカルラリー(救命医療の全国大会)7位
  • 平成23年

    たちあがれ日本(平沼赳夫代表) 次世代人材育成塾 「かけはし塾」一期生(前期)
  • 平成23年

    たちあがれ日本 かけはし東京第一支部 支部長
  • 平成24年

    たちあがれ日本 青年部長
  • 平成24年

    太陽の党を経て日本維新の会 衆議院東京都第二十二支部長
  • 平成24年

    第46回衆議院議員選挙出馬 40698票 獲得
  • 平成25年

    康明会病院 地域医療診療 統括部長
  • 平成25年

    日本維新の会 衆議院東京都第22選挙区支部長に再任
  • 平成25年

    日本維新の会 東京都総支部 執行役員
  • 平成26年

    分党に伴い次世代の党 衆議院東京都第二十二支部長
  • 平成26年

    第47回衆議院議員選挙出馬
  • 平成27年

    青梅成木台病院 診療部長
  • 平成27年

    次世代の党 衆議院東京都第二十二支部長に再任
  • 平成27年

    次世代の党 衆議院東京都第二十二支部長を返上し円満に離党
  • 平成28年

    大阪維新の会 維新政治塾 第三期生に合格
  • 平成28年

    おおさか維新の会 衆議院東京都第22選挙区支部長に就任
  • 平成28年

    党名変更に伴い日本維新の会 衆議院東京都第22選挙区支部長

▲千里メディカルラリー 救命技術を競う全国大会に、青梅市立総合病院 救急科&東京消防庁チームで参加。

▲千里メディカルラリー2 初出場で全国7位の快挙を成し遂げました。

生~幼稚園時代
▲天然の茶髪で周りからよくかわいがられたそうです。
  • 昭和48年2月、金沢市生まれ。
  • 親からはあきぼうと呼ばれていた。
  • とにかくやんちゃで、私が通ると犬も逃げ出すと言われていた。
  • いたずらが過ぎると、”お外”という裸で外に放り出されるお仕置きがあった。
    現在では児童虐待で通報されるかもしれない。
  • 神社が遊び場でよく土を掘り返しては蛇を見つけていた。
    ただ、今、思い返すと蛇ではなくミミズだったと思われる。
  • お祭りの出店が大好きで今でも屋台を見るとつい寄り道してしまう。
  • 冷たい牛乳とかっぱえびせんが大好物だったらしく、
    母親の実家に何日か預けられた時もそれでおとなしくしていたとのこと。
  • 勤務医だった父の転勤(医局人事)で金沢市、富山市、舞鶴市(京都府)と転居。
    幼稚園も2回転園。
  • 舞鶴で白い紀州犬の雑種を飼い始めた。
    私が大学生になるまで長生きし、今でも守ってくれている気がする。
学校時代
▲京都旅行にて。
▲母親の実家の福井にて。蛍も見られます。
  • 3年生までは舞鶴市立 三笠小学校で過ごす。
  • 裏山がありクワガタ捕り、貯水池まで探検などワイルドな環境であった。
  • 軍港があり護衛艦をよく見に行っていたのを覚えている。
  • 一人で遠出すると「口裂け女が出る」、「さらわれる」などの噂があったが、
    今にして思えば北朝鮮の拉致問題絡みだったのかもしれない。
  • 喧嘩ばかりするきかん子で若い女性担任をよく悩ませていた。
  • 人生初の親友ができ、よくたしなめて貰った。
  • 4年生から富山県 高岡市立 成美小学校に転校。
    車の排気ガスが多く、路面電車が走り、先生も厳しく、当時はとんでもない都会に来てしまったと感じたが、今にしてみるとかなりの田舎であった。
  • 少年柔道クラブに通い始める。
  • 勉強に目覚め、担任から授業を任されることもあった。
  • 親の影響であろうか、タイムカプセルには、将来医者になると書いて入れた記憶がある。
  • 自作のラジコンにはまる。
学校時代
▲右がまだあどけない頃の私です。
  • 高岡市立 志貴野中学校入学。
  • 陸上部に入部したが、途中で引っ越し転校することになり退部。
    ただ、転校はまぬがれて隣の校区から通うことになった。
  • 首席となったが、人間性はあまり磨かれなかったように思う。
    特に人生の目標も持てず、とりあえずトップ校を受験、進学する。
校時代
▲高校の卒業アルバムより。この辺から大学までは写真嫌いでした。
  • 数学の小テストでいきなり0点をとり嫌いに。
    その割に物理が大好きという意味不明な特性を持つ学生になる。
  • 機械いじりが好きだったので最初は何となく工学部に進学を希望していた。
  • 放課後は友達とゲーセン通いや自宅にたむろして”信長の野望”にはまっていた。
    この頃から歴史が好きになり、上杉謙信公を人生の師と仰ぐようになる。
  • 親友が3人でき、今でも帰省すると必ず飲み明かす関係が続いている。
  • 高2から世の中や政治がおかしいことに気付き、人生の意味を考えるようになった。
  • 政治家の親戚もおらず、自分なりに考え、資源探査学という珍しい講座があり、地学では名門の国立 高知大学 理学部 地学科を選択。
    いずれ金や石油を掘り当てその資金で世直しをしたいと思っていた。
  • 入試科目にない微分積分と化学の勉強を放棄。
    担任の数学の先生から0点なら卒業させないと言われかろうじて4点(100点中)をとり見逃して貰う。内申書も3をつけてくれ今でも担任には感謝している。化学は容赦なく2をつけられた。その他の科目はオール5。
  • センター試験で2位と100点以上差をつけ首席で大学へ進学。
学時代~アジア放浪時代
▲ネパールで写真を撮って貰ったらなぜか大勢に取り囲まれました。
▲インド ブッダガヤー(釈尊が悟りを開いた地)近郊の川辺にて。
左は、この地で偶然出会った”やのあきら”さんという一字違いの同い年の方で、この後、背後のふたこぶ山の中腹に釈尊が篭った洞窟があるというので一緒に歩いて行きました。実際行くと滅茶苦茶遠く、夕方到着し、振り返るとジャングルの中に佇むブッダガヤーの仏塔が遥か遠くに見えとても美しかったのを思い出します。
  • 資源探査は衛星を使う時代になっており、個人の力の限界を知りやる気をなくす。
  • 勉強は全くといっていいほどせず、柔道部に入りひたすら汗を流す。
  • 世の中を何とかしたいという思いと現実とのギャップを感じ中退。
  • 周囲には医学部を受け直すと言っていたが、その先の未来に確信が持てず、どこか本気でなかった。
  • 父親の実家が真言宗のお寺ということもあり、子供の頃は里帰りのたびに本堂で遊んでいた。
    その影響もあってか、釈尊の生涯、そして仏教の教えに興味を持つ。
  • 浪人中に思い立ち、リュック1つ背負いバックパッカーとして釈尊の生誕地であるネパールのルンピニーに旅立つ。
  • 以後、旅にはまり、アルバイト、勉強のかたわらアジアを放浪するようになる。
    中国、香港、台湾、韓国、フィリピン、マレーシア、シンガポール、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、 インドネシア、モンゴル、ミャンマー、インドなどを彷徨う。
    中でもインドでは、スリランカからの巡礼団に混じり仏教の8大聖地(1つはネパールのルンピニー)を全て訪れ、お寺に寝泊まりをするなどしていた。
  • 多様な旅人と出会い、議論し、時には騙され、死を身近に見て多少のことでは 動じなくなるなど良い経験をしたと思っている。
  • 仏教の全ての執着から離れ空を目指すという考えにある意味虚しさや寂しさを感じていたが、あるお坊さんから全ての邪な執着から離れると心が空っぽになるのではなく、慈悲の心が残るという話を聞き、目から鱗が落ち心の底から腑に落ちた。以後、仏教が大好きになり、それとともに自分なりの仏教観、人生観をもつようになった。
  • 旅で出会った人に、「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す」と いう格言を教わり、医師の道を追求すればいずれは世の中を治す道に繋がるのではと思い至り、真剣に医師を目指すようになった。
学部時代
▲ペンシルバニア大学にて。疲れて寝ている?
  • 数学と化学を放棄していたことがたたり、随分と苦労したが医学部に合格。
    特待生として学費も減免して頂いた。
  • とにかく、勉強は頑張り首席であったが、どこか尖ったところがある学生生活だったと思う。それでも、今でも学会の度に飲み明かす親友もできた。
  • 6年生の時に、学年で3名のみ海外留学のチャンスを得た。
    当時、宇多田ヒカルがコロンビア大学に留学しておりミーハー心で迷ったが、野口英世が学んだ名門ペンシルバニア大学 医学部を選択する。
  • 春休みを利用してアイオワ大学 医学部にも短期留学した。
    アメリカの医学生と共に臨床を学んだが、言葉の問題以外はあまり差を感じなかった。
    ただし、教育システムの違いか、平均から下のレベルの学生はアメリカの方が優れている印象をもった。
  • 世界中から留学生が集まる大きな寮に寝泊まりし、大いに刺激を受けた。台湾とインドからの学生と一番仲が良かった。
  • 留学から帰国すると国家試験に向けてひたすら勉強した。
    成績からは落ちるはずがないと分かっていても、皆が何かに取り憑かれたように勉強しており追い立てられた。
    結果的には合否ラインを大きく超えて合格し、無事医者になることができた。
修医~救急医時代
▲立川の救急司令室前にて。
▲救急司令室。この一角に救急隊指導医の席がある。3.11では大混乱になった。
▲防災訓練で救急隊を指揮。
  • 研修医時代にしごかれ、尖った性格(体型も?)はすっかり丸くなった。
  • 放浪時代、目の前で死にそうな人がいても何もできなかった無力感から、専攻は救急科を選択した。
  • 救命救急センターでひたすら命に向き合い、腕を磨いた。救えた命も多いが救えなかった命もまた多かった。
  • DMAT(災害派遣医療チーム)隊員や予備自衛官となり厳しい訓練を重ねる。
  • いつの間にか教わる立場から教える立場になり100名以上の研修医を育てた。
  • 救急科専門医も取得し、医師として充実した毎日を送るが、もっと救急や医療のシステムが変われば救える命もたくさんあることや、その根本原因に国が重篤な状態にまでおかしくなっていることに気が付く。
  • 高2から思い抱いてきた、世の中を何とかしたいという思い、そして大医となって国を治すために医師になったことを思い出す。
  • そうこうしている時に、民主党政権が誕生し、日本がさらにおかしくなっていくのを目の当たりにし、一方で打倒民主を掲げる「たちあがれ日本」という新しい小さな政党が誕生したことを知る。
  • 東京消防庁 救急隊指導医として月に2日は救急司令室に24時間泊まり込み、救急隊に指示、助言を与える仕事もしていた。3.11東日本大震災の日、たまたま当番で東京の救急システムが麻痺していくと ころを目撃。首都直下型地震への備えなど防災問題を考えるきっかけとなった。
  • 参議院選挙で「たちあがれ日本」に一票を投じ、片山虎之助先生が当選を果たす。
  • 「たちあがれ日本」主催の次世代人材育成塾、「かけはし塾」の募集を発見し 応募、4倍の倍率を突破し無事合格、一期生として政治の勉強を開始する。
けはし塾~たちあがれ日本青年部時代
▲片山虎之助先生による地方自治についての熱い講義。
▲平沼赳夫塾長より卒塾証書を授与されました。
▲青年部打ち合わせ。日本の将来を憂い、熱い議論を交わしました。
▲街宣車に手作り横断幕を取り付け、人生初の車上からの演説です。緊張でスピーチが飛びそうになりました。
▲各地で街頭演説を重ねました。少しでも日本が良い方向に行くことを信じて。
▲1年やり終えた最後の街宣後の集合写真。やりきった感でみんな、本当に良い笑顔です。
  • 塾は25名の少数精鋭で、平沼赳夫代表を塾長とし、園田博之、藤井孝男、
    中山恭子、片山虎之助先生など所属国会議員を中心にみっちりと講義を受けた。
  • 片山虎之助先生からは、地方自治について教わった。
  • 今まで漠然と世の中がおかしいと思っていても、親も友達も分かってはくれなかった。
    塾では、そうした思いを共有する同志がたくさんおり、とても嬉しかった。
  • 塾の合宿で2泊3日沖縄を初めて訪問した。戦跡や慰霊碑をまわり、先人が命がけで守ってくれた祖国を今度は我々がしっかりと守り、次の世代に受け継いでいかなければという思いを新たにした。
  • 最後の授業では、有楽町で人生初の街頭演説を行い、拙いながらも一生懸命にお訴えをさせて頂いた。
  • 卒塾した後、有志で集まり、何か日本の為にできることはないかと、熱い議論をかわした。その思いを党が汲み取り、青年部が発足した。
  • 11月23日の新嘗祭(勤労感謝の日)に秋葉原で第1回街頭演説をしようと決まり、それに向け、部員同士の連絡手段としてSNSを立ち上げ、青年部のホームページ を作り、街宣車用の横断幕やのぼり、ビラの作成などを急ピッチで進めた。
  • 制作物は元デザイナーの妻が全てを手作りしてくれ、相当無理をして頑張ってくれた。今でもこの時のことを思うと妻には頭が上がらない。
  • 平沼赳夫代表をお迎えし第1回秋葉原街宣を行った。青年部員で場所取り、ビラ配りなど全ての運営を行い、数百人の観衆の中、人生初の車上からのお訴えをした。
  • 打ち上げは最高に盛り上がり、1年続ければ何か大きな変化に繋がるのではということで、毎月秋葉原街宣を行うことが決まった。
  • いつしか青年部でのリーダー的存在となり正式に党から青年部長に任命された。
  • 毎月の秋葉原街宣では毎回、国会議員の先生や地方議員の先生もお呼びした。
    一方で、新宿、大田区、名古屋、大阪、神戸などでも街宣を行い、講師の先生をお呼びして講演会を開催したり、国会議員の先生にインタビューして回り、動画をホームページにアップするなど全国で精力的に活動をした。
  • こうした青年部での活動のかたわら、来たるべき総選挙での立候補を決意し、地元でも街宣を行うなど政治活動を開始した。
陽の党~日本維新の会時代
▲最初の選挙で準備時間もない中、キャラクター付けという意味もあり救急医を前面に押し出し選挙戦を戦う。
▲石原慎太郎(元都知事、日本維新の会 代表)にも応援演説に来て頂いた。数千人の聴衆を前にお訴えをさせて頂く。
▲訪問診療医として、地域医療に従事。看取らせて頂いた多くの忘れられない患者さんや熱い心を持ち地域を支える医療・介護従事者の方がたくさんおられました。
  • ちょうど秋葉原街宣を1年やりきった時、石原都知事が代表となり、たちあがれ日本から太陽の党へと名前が変わった。
    みんな、とても喜んでおり、日本復活の為に頑張りぬくことを誓い合った。
  • 突然の解散総選挙となり太陽の党は、僅か数日後に、橋下徹代表が率いる日本維新の会に合流。
  • 選挙区調整の結果、衆議院東京22区(三鷹市・調布市・狛江市・稲城市)の支部長に公認される。
  • 2週間ほどの準備期間しかない中、必死で選挙準備を進め、第46回衆議院選挙に出馬。
    40698票もの得票を頂戴したが、力及ばず落選。
  • 三鷹市に35年ローンでマンションを購入し引っ越す。
  • 地元の為に頑張りたいと思い地域住民協議会に入り総務部会に配属される。
  • 一般社団法人 かのあきら医療福祉支援センターを立ち上げ代表理事に就任。
    地域で救命講習、防災講習、医療・介護・福祉の相談会などを行うようになる。
  • その後の都議会議員選挙、参議院選挙のお手伝いなどを経て、日本維新の会 衆議院東京都第22選挙区支部長に再任され、東京都総支部の執行役員となる。
  • 広報を担当し総支部のホームページを作成したり、東京維新塾の班長として塾生の教育を担当するなどした。
  • 政治活動をしている為、公務員である青梅市立総合病院 救命救急センターで働くことが困難になったが、埼玉石心会病院 救急科に誘われ非常勤でER救命医師を続けている。
  • 康明会病院に地域医療診療統括部長として誘われ在宅医療に従事、患者さんのお宅を訪問し、診察、治療を行う。
    訪問看護・介護、ケアマネージャーさんとの連携、癌や認知症の末期の方の緩和 ケア、看取りなど救命センターとは異なる地域医療に携わることができ医者として視野が大きく広がった。
  • 患者さんや家族から「先生のおかげで、自宅で家族と最後の時間を過ごせて本当に感謝している」と涙ながらに仰って頂き、この国の地域医療を守り抜く決意を新たにした。
  • 医師会の在宅医療推進委員にもなり、介護保険の問題、地域包括ケアシステム の問題などに関わる。
世代の党~日本維新の会時代
▲2度目の衆議院選挙。多くのボランティアスタッフ、地域の応援を受け奮闘。
▲参議院議員の江口克彦先生に応援に来て頂く。親子と間違われる。
▲山田宏幹事長に声が枯れるまで応援頂いた。
▲今回の選挙でも政治学の師匠、藤井げんき先生に応援頂いた。
  • 結の党との合流問題がきっかけで分党をすることに。
    東京では執行部内でも和気藹々とやっていただけに辛い選択を迫られる。
  • 思い悩んだが、結の党との国家観の違いや、今までお世話になった義を重んじ、次世代の党を選択。
  • 次世代の党 衆議院東京都第二十二支部長に就任。
  • 駐屯地で5日間泊まり込みの予備自衛官訓練の最中、突然の解散総選挙が決まる。事務所スタッフが良く準備を頑張ってくれ、訓練をやり遂げることが出来た。
  • 第47回衆議院選挙に出馬。東京では田母神俊雄、山田宏候補に次ぐ第3位の得票を頂戴し奮闘するも落選。
  • 党が壊滅的大敗を喫し分党を主導した幹部が続々と離党する中、党員獲得200名以上、100名以上のタウンミーティング開催など精力的な活動で党を支え、東京で唯一人、国政支部長に再任された。
  • 西多摩地区の認知症疾患医療センターでもある青梅成木台病院にお誘い頂き診療部長に就任。
    精神科・認知症の入院患者さんの身体合併症治療を一手に引き受ける一方、精神科医療の現実も知ることに。
  • 地域唯一の診療所の閉鎖に伴い、内科外来を立ち上げ地域医療を支える。
    保育園園児の健診開始、院内の救急システムや各種業務マニュアル整備など病院改革にも着手。
  • ついに平沼赳夫党首も離党し、たちあがれ日本から行動を共にした国会議員は、中山恭子参議院議員のみとなる。事情の説明もなく取り残され面会も謝絶。
  • 維新の党の中で旧結の党や民主党出身の議員と大阪系議員との間で不和が決定的となり別れることに。
    日本維新の会が分党する原因となった問題が解決され、別々の道を歩む意味を感じられなくなった。
  • 跡を継いだ中山恭子代表、和田政宗幹事長、江口克彦参議院議員に面会しご相談。
    日本復活に向け、自分の力を一番発揮できる場所で活動をする為に維新に戻るのが最善であるとの了解を得、激励される。党本部にも今までお世話になったお礼とご挨拶をし、円満に離党となる。
  • 維新政治塾第三期生に合格。維新スピリッツを学び直す。
  • おおさか維新の会 衆議院東京都第22選挙区支部長に就任。
  • 党名変更に伴い日本維新の会 衆議院東京都第22選挙区支部長へ。医療の身を切る改革、そして日本の身を切る改革を目指す。